小説蔵

道 ―あなたの道はどんな道―

「行ってきます」

 ヒロシは、玄関を開けた。冷たい空気が一気に家の中に入ってくる。思わず首をすくめた。冬の夜空で冷え切った空気が一気に顔を刺す。思わず身震いが出る。目が一気に覚めた。

「うー。寒い」ボソッと呟く。あまりの寒さに家を出るのをためらいそうになる。

冬の夜明けはゆっくりだ。まだ、あたりは真っ暗。街灯が申し訳程度に道を照らしていた。

ヒロシの家からバス停までは、歩いて三十分ほどかかる。急げばまだ早く着くのだが、ヒロシは夜が明けていくさまを感じながら歩くのが好きだ。まだ、皆が動き出す前のゆったりとした時間がそこには流れていて、家の灯りがようやくポツリポツリとつき始めて、慌ただしい日常が始まる前のちょっとした静けさ。誰も歩いていない街並みを一人で歩いていると、この世の中に人間は自分しか存在しないのではないかと妄想で非日常を味わえる。

これで、暖かければいいなぁと思うが、この時間のこの雰囲気は冬にしか味わえない。夏は、もう夜が明けてしまって蝉たちが我先にと活動を始めているし、朝の涼しい時間にとランニングをしている人や犬の散歩をしている人たちがいる。

しばらく歩いていると、住宅の隙間から日が昇っているのが見える。少ししか顔を出していない太陽が、辺り一面を真っ赤に染めた。

「朝焼けか―。」

また、いつもとは違う雰囲気に住宅街が照らされる。少し立ち止まり、辺りを見渡す。朝焼けは、お天気が崩れる兆候だという少し憂鬱な気分になりそうな話もあるが、真っ赤に染まった街並みを見ていると、これもまた非日常を際立たせている。何か得をした気分になってきた。

しかし、すぐに非日常をかき消すような大きな音が鳴り響いてきた。消防のサイレンの音だった。静かな町に目一杯の音を鳴らす。ヒロシは、サイレンの聞こえる方を振り返った。立ち止まって凝視してみると、真っ赤な空に白い一本の筋が出来ている所があった。

その方向にふとヒロシは、立ち止まる。
「今日だったんだな」とボソッと言い、目をつぶり軽く一礼した。


サイレンの音もまた非日常ではあるが、あまり好ましいものではない。ヒロシは、足早にバス停に向かった。ヒロシが会社に着いたところで、急に雲行きが怪しくなり、シトシトと雨が降り出した。冷たい雨だった。

「雨が降ってきたな」
ヨシオは、ため息をつく。

田舎の一本道とはいえ、雨の日は運転しづらい。だが朝の通勤時間帯だというのに交通量は皆無に等しく、すれ違う車さえもいない。十年前に雰囲気が好きで住宅街から離れた所に土地を購入し、家を建てた。建てた当初は、通勤に一時間車を走らせないといけないことにうんざりというよりも、自分が好きな景色を眺めながらドライブ気分で通勤できると嬉しかったのだが、それもドンドン慣れてくると感動も薄くなる。

信号のない田舎の一本道。数年前までは、隣町に行く唯一の道路だったために交通量もそれなりにあったが、バイパスができてからは、地元民しか走らない道路になった。

ヨシオの視界の隅に煙が見えた。あまり気にも留めずにそのまま車を走らせる。何の気なしにバックミラーで煙の見えた方向を見ると、ヨシオはすぐに車を停めた。

「電話。電話。電話…… 」
といいながら、ヨシオは慌てた様子で携帯をカバンから探す。ヨシオがバッグミラー越しに見たのは、家が燃えている姿だった。
「消防は、110番?119番? 落ち着け、落ち着け」
ヨシオは自分に言い聞かす。二、三度大きく深呼吸をする。そして、消防に連絡した。


「また、きれいに燃えましたね。」

現場にきていた刑事の小林がブツブツと独り言を言いながら、人の何倍の時間をかけて現場を舐め回すように見ていく。小林は、現場が大好きだった。現場から感じる人の気配。どうして警察が立ち入らないといけない事になったのか、想像するのが楽しい。刑事になって十数年がたつが現場に入るときは、いつもワクワクする。今回の案件は、どんな人間模様を見せてくれるのだろう。当事者からすれば、不謹慎極まりないので、一応は冷静に保ってはいるが。


そのそばで、小林の様子をちらちらと見る山下。
山下に「少しは、見慣れたか? 」と小林の同僚の田畑が聞いている。
山下は、交番勤務を経てようやく念願の刑事になり、半年過ぎた。始め、山下は小林の独り言に全部反応していたが、それに答える小林ではない。

上司にコミニケーションの球を打ち返したのにスルーされる……自分の仕事がしたいのに、小林の態度が気になってしまい、落ち着かない日を送っていたが、それに気づいた田畑が小林の取り扱い方を山下に伝授し、今に至る。

山下が「現場周辺を見渡せば分かると思いますが、この現場は住宅街からはずれていまして、家自体も築年数が相当経っていた木造住宅だったらしいですよ。いつも、通勤する時にこの家の前の道路を通る男性が煙に気付いて通報してくれたみたいですけど、近所の住人は火事には気付いていなくて、消防車のサイレンで気付いたみたいです。通報が遅かったのもあって、消防が到着した時は、すでに家の原型をとどめないほど燃えていました。今、住人の所在を探している所です」と現場を歩く小林に聞こえるように大きな声で話す。

伝わっているか伝わっていないかは関係ない。小林自体も聞いているのか聞いていないのか、終始笑顔で現場を行ったり来たり。
「おい。顔。」田畑が小林に声を掛ける。小林が田畑の方をチラッと見る。
そして、一瞬不敵な笑みを田畑に向け、真顔になる。

田畑は、小林が入署してからの教育係だった。小林よりも刑事になったのは先であるが、小林はキャリアで入ってきているので、今は田畑より階級は上だった。ただ、小林は現場が大好きなので、現場に行ける役職までしか昇級試験を受けてはいない。未だに一緒にいるのは、小林の取り扱いができるのが管轄内で田畑しかおらず、二人でワンセットの様な感じになっている。

山下が言うように、火災の起こった現場は、木造平屋の築年数五十年以上の家だった。家の周りが生垣で囲まれており、道路からは、この家の屋根しか見えなかった。火災で残ったのは、黒焦げの数本の柱と土台が少し。消火したというよりは、燃え尽きたという表現の方があっている感じだ。

家が建っていた場所にいて空を見上げると、朝の雨もやみきれいな青空が見える。ようやく太陽が顔を出し、辺り一面に光を与え始めた。冬の陽射しは一段とまぶしい。冬の短い陽射しの中、周りの木々たちは我先にと光を浴びている様だった。小林は、目をつぶり大きく深呼吸をした。焦げ臭さが残る現場に微かに灯油の匂いがした。小林は、その匂いにニヤリと微笑んだ。もう一度、ゆっくりと息を吸い込む。

「これじゃ、隣の家の人も火事には気がつかないな」と、田畑が背伸びをしながら周りを見渡す。生垣に囲まれて、家のあった位置からは、敷地外の様子はほとんど見えない。隣の家も数メートル離れているために全然見えない。
「現場の住人はどこに行ったんですかね」と小林がまた独り言。火災現場に人の遺体らしいものはなかった。無人の状態で、火は燃え広がったと考えられた。しかし、住人とは未だに連絡が取れない。

火元は、リビングのストーブの残骸の痕の周辺の燃え方が激しい事からそこからだと考えられた。冬の寒い日、ストーブから火が何かに燃え移ったという事は多々考えられた。あとは、住人に家の様子を聞き、今回の火災を事故として処理しようとしていた。

「これ、放火ですよ」小林がボソッと皆が集まっている所に言いにきた。その言葉にその場にいた同僚がギョッと不思議そうな顔をする。小林は続けて「灯油が撒かれて火が付けられた可能性が高いです」と言い放った。「灯油? 」と誰かが言うと「灯油。匂いますよね。この匂いは、ストーブに入っていた量じゃない。」と言い、小林はその場を離れた。小林に面識のない消防の人間がビックリした様子で小林を見ている。田畑はその様子を遠くから見て苦笑していた。

様子を見に来ていた近所の住人に話を聞く。
現場の住人は越してきて2~3年は経っているという事だった。ただ、近所付き合いはなく、どんな人物が住んでいるかまでは知らなかった。長い事建っていた売り家の看板が、数年前に外された事、たまに夜に灯りがもれていた事から、誰かが住み始めた事はわかっていた。

この家を売った不動産屋によると、この家を買ったのは40代後半の女性が3年前に、現金一括で買ったそうだ。田舎の築年数のかなり経った物件なので、あまり高い金額ではなかったが、現金一括で買ったことと物件を見に行くわけでもなく、不動産屋のホームページに載っている写真だけで買ったことに不動産屋は驚いたそうだ。バリバリのキャリアウーマン風ではなく、どちらかと言ったら家庭的な専業主婦の様な女性だったらしい。

「最近は、田舎でも近所付き合いがないのか?」と田畑が言う。「私も自分の家の近隣住民は知りませんがね。まぁ、住人を見なくてもどんな人物でどんな生活をしているかはわかりますが」とサラッと小林が言う。

なぜかその言葉に悪寒がはしる。それを聞いて田畑は、小林の近所だけには住みたくないと思う。でも、付き合いのない近隣住民の話が不動産屋の話とマッチしていて、少し怖かった。
―― そういえば、うちの嫁もやたらと近所の情報に詳しいや ―― と田畑は思った。聞き込みする時も近所のおばちゃんの情報には驚くところがある。

「田畑さーん。住人の名前と職場がわかりましたよ」と少し離れた所で消防と話をしていた山下が、田畑に声をかける。小林は、チラッと山下の方を向いたが、また現場を歩き出した。

「今ようやく、住人の名前と、勤務先がわかって、勤務先に連絡をいれているところだそうです」と山下が田畑の元に行き話す。
「住人のお名前は?」とさっきまで、近くにいなかった小林が山下のすぐ後ろにいて山下に話しかける。急に後ろから話しかけられた山下がビックリしながら「道野良子さんという女性だそうです」と答える。

「ふうーん」と小林は言い、「勤務先は? 」と聞いてきた。「えっと」と言いながら、山下がメモ帳を開く。そのメモ帳を小林はのぞき込みまた、「ふうーん」と言い、立ち去った。
その様子にみていた田畑が「大丈夫か?」と山下を気遣う。「あっはい。大丈夫です」と山下。

小林は今度は「道野良子氏。道野良子氏」と言いながら、現場を歩いていた。「知り合いじゃないですね」とボソッと独り言を言った。知り合いにいないか確かめていた様だった。今まで、一度も知り合いがいたことはない。ただ、事件も事故も知り得るのは報道より早いので、つい知り合いではないか探してしまう。小林の交友関係などたかがしてれいるのだが。一度でいいから知り合いの現場に行ってみたいと思っている小林であった。

「はぁ? 何だそりゃ」と山下や他の同僚と話をしていた田畑の声が現場に響く。そして、田畑が難しい顔をしながら、小林の方に歩いてくる。「おい。ちょっといいか?」と田畑が小林に言う。その様子に小林も田畑の方向に歩く。

田畑が小林に「道野良子さんの職場に連絡したら、今日は無断欠勤していて、会社の机の書類の中から遺書が出て来たとの事だ」と言った。

「自殺?でも、ここにはご遺体は無かったですよね」と小林が疑いの表情で言うと、「そうなんだよな」と田畑。「家だけ火をつけて、どこかで自殺したって事ですか」と小林が呆れた物言いで言うと「遺体がここにはないとなるとそうなるよな。遺書には、“会社のお金を横領したのが隠し通せないので自殺します。”と書かれていたらしい」と田畑。

田畑から話を聞いた小林は、深く首をかしげながらブツブツと口に出し、考えていた。遺体のない遺書などあまり信用が出来ない。罪から逃れるための自殺の狂言という事もありうる。家に火をつけて、自分ごと燃えてしまったと警察の目をごまかそうとでもしたのか。それとも家と共に死のうと考えたが、火を見たら怖くなって逃げだしてどこか違う場所で自殺したのだろうか。現場に漂う小林が感じる雰囲気と違う結末を迎えようとしている事に少し戸惑う。今回は、感が外れたか―― 。まぁ、そんな事もあるな。そう思いながら、少し頬が緩む。奥が深いなと嬉しくなる。そして、そのまま現場から離れた。


「署に戻りますか?」と山下が言うと「そうだな。顛末がわかったからな」と田畑は言い、「とりあえず、道野良子の足どりの手掛かりが無いか、もう一回りしてから帰るか」と言って、田畑と山下は現場を一通り見て回る。

グルっと敷地内を見た後に「帰るか」と田畑が言い、帰る準備をする。山下が「小林さんは?」と小林の姿を探す。

小林は、現場を道路側から食い入るように見ていた。美術品を見るようなまなざし。すると何か見つけたらしく、足早に敷地内に入ってきた。そして、敷地内に立っていた一本の木の下に立ち、木を見上げていた。

山下がその行動を不思議に思い、小林に近づく。

「何かですか? 」と山下が聞くと「あそこに何かあります」と木の茂みの中を小林が目をキラキラさせて指を指す。

山下が指を指されている所をみる。そこには、小型のカメラが付いていた。「防犯カメラだ」山下は思わず、大きな声を出る。

その声に現場にいた人たちが山下の方をふり返る。

現場にいた人達が木の下に集まり、次々に木を見上げる。

「おおっ」見た人たちが次々に声に出し、現場にどよめきがおきる。一人がカメラの確認をするためにはしごを持ってきた。はしごを上り、カメラに近くと、「ダミーではありません。本物ですね。あっ、警備会社の名前が書いてあります」と言った。

「おおっ」現場に歓声があがる。これで、この家の人の動きが把握できる。田畑は、携帯を取り出し、早速、カメラに書かれていた警備会社に連絡をいれた。

田畑は、警備会社にの事の概要を言い、映像を確認したい旨を伝え、道野良子の名前と住所を告げた。警備会社の電話交換手の女性は、事実関係を調べて折り返し電話をかけなおすといい、電話はきれた。しばらくして警備会社から、折り返しの電話がきた。

「警備会社の吉野と申します」と、電話の相手は名乗り、「映像の確認は、契約の内容によりすぐにできます。ただ、準備をしなければならないので、二、三十分ほどお時間頂きます。それで、あの…… 道野さんは? 」と、住人をとても心配した様子で聞いてきた。

「そちらに行ったときにまた詳しい話をします」と田畑。「わかりました。お待ちしております」と吉野は答えた。 

防犯カメラを設置した契約者の許可がなくとも、防犯カメラの映像の確認ができる様に契約書を交わしていたらしい。

田畑は電話を切ると小林を探した。小林は、うつむき加減にブツブツと言いながら、また現場を見歩いていた。「小林、アポとれだぞ。今から行くぞ」と声をかけた。小林が顔をあげ、田畑の方を向きキョトンとした表情をする。

「カメラの映像を見に行くぞ」と田畑が言い直すと「あっ。大丈夫です。田畑さんが行ってきてください」と小林は言った。今度は、田畑がキョトンとする番だった。

田畑と山下は警備会社に向かった。小林にも確認したが、自分でカメラを見つけたのにも関わらず、カメラに興味をそそられなかったのか、道野良子の会社へ遺書の確認の方に向かった。

「小林さん、カメラにはあまり興味が無かったみたいですね」と警備会社に行く車の中で山下が言う。「そうだな。自分で見つけたのにな。遺書の方が気になったか…… 。まあ、自殺かどうか疑ってたしな」と田畑が言う。「自殺じゃないと?」と山下。「うん。そうかもな。小林の考えている事は、俺にはわからんよ」と田畑か言う。「もう、二十年近く一緒にいてもですか?」と山下。「あぁ。全然。私生活も謎だしなー」と田畑。

「それにしてもまさか、防犯カメラがあるとは思いもしませんでしたね」と山下が言う。

「確かにな。まあ、近くに民家もないし、物騒といえば物騒だしな。最近の犯罪は、防犯カメラの有り無しが事件の解決に重要になってきているしな。でも、今回は何で住人がカメラを設置したのか気になるところではあるけどな。自分に不利になりそうだよ。気が動揺して防犯カメラの存在を忘れていたのか? 分からんな」と田畑。自殺すると遺言を残して、家を出たとなると道野良子にとって防犯カメラの存在は不利になる。先ほどの電話で、防犯カメラの設置をした人物の名前を聞くと、道野良子本人が設置していた。

車を走らせてしばらくすると『防犯カメラで動きがあったら、すぐに教えてください』と小林からメールが入る。小林から連絡などほとんど来ないに等しい。その小林がわざわざメールを寄こしたとなるとカメラの方も十分に気になっていたことがわかる。「あいつ、ただ、カメラの映像確認作業が嫌だっただけじゃ…… そういえば、いつもビデオ確認の仕事の時に逃げているな…… 」田畑は、一人で笑ってしまった。

警備会社は、現場から四十分ほど離れた、市の繁華街にあった。警備会社の名前の付いたビルの一階部分に受付があった。一棟丸々、警備会社が入っている感じだった。「儲かってますな」とその様子に田畑が独り言をいう。

受付で、話をするとすぐに中に通され、ひとつの部屋に案内された。長机と椅子があった。壁には、ここの警備会社のしているいろいろな警備の案内が細かく書いてあった。お客との接客用の部屋なのであろう。テーブルの上には、パンフレットも置いてあった。

「しばらく、お待ちください。担当の者を呼んでまいります」案内してくれた女性が言い、部屋をあとにする。

「田畑さん、家に防犯って何かしています?」とテーブルのパンフレットを見ながら山下が聞いた。

「いや…。自分が窓を閉める時に鍵のロックまですることぐらいかな。でも、ほとんど家にはいないから窓の開け閉めをしないし。普段は、家の事は嫁まかせだから。実際は、家の防犯対策なんてわからんよ 」とパンフレットを見ながら苦笑いの田畑。聞いてきた山下も「ですよね」と苦笑い。警備内容をみればみるほど、魅力は感じるのだが、なにせ、隣に書いてある値段を見ると、まだ入らなくても大丈夫かな… と考えてしまう。

 警察に勤めていると、いろいろな犯罪情報も入ってくる。世の中、便利になってきているが、犯罪をするものも巧妙になってきてその便利さを利用しての犯罪も多くなり、便利なのか不便なのかわからなくなってきている。でも人間は生きている限り便利への追及をやめないだろう。昔に比べたら、防犯の意識も高まってきている事は確かだ。命は、お金には代えられないが、防犯だけで生きていける世の中でもない。防犯をしなくてもいい世の中が、一番理想ではある。かなりの理想論ではあるが。

程なくして、一人の男性が部屋に入ってきた。名前を吉野と言った。

「あぁ、先ほどはどうも 」田畑が頭をさげる。

お互いに軽い挨拶をする。

 吉野は、すぐに道野さん宅に付いていた防犯カメラの映像を見せてくれた。

「道野さんが契約していたのは、一週間分を録画できるようにするものでしたので、今日から一週間前まで見ることが出来るようになっています」と吉野が説明をしてくれる。

田畑がポケットから手帳を取り出し、「昨日の午後六時からの映像を見せてもらえますか」と言った。道野良子は、昨日の午後六時に会社を出社した姿が今のところ確認できる最後の姿だった。

「昨日の午後六時ですね」と言いながら、吉野がパソコンから映像を部屋に置いてあったテレビ画面に映すようにセッティングする。

薄暗い映像から始まった。今の時期、午後六時になれば辺りは薄暗くなってくる。郊外では、街灯も少ないのでとくに暗さが際立つ。同時間で見て行くと、時間がかかるので吉野に映像を倍速再生にしてもらう。

「あっ」山下が声をあげる。そこには、女性の姿が映っていた。

それを見て吉野が「道野さんですね」と答えた。田畑も山下も道野良子の顔を知らない。この中で、唯一知っている吉野が言うのだから、間違いはないと思う。時刻は午後七時過ぎだった。道野良子の勤めていた会社からは彼女の自宅まで、1時間程かかるので、仕事を終えて真っ直ぐ帰宅したのであろう。

それから道野良子が家に入って四時間、何の動きのない時間が過ぎた。

「あっ」山下がまた声をあげる。

道野良子の家に訪ねてきた男性が映ってきた。「映像を止めてください」と田畑が言うと、吉野が映像を一時停止した。「誰だろう」と田畑。時刻は、午後十一時を過ぎていた。他人が訪ねるにしては遅い時間だ。「誰ですかね。道野さんは、確か一人暮らしでしたよね」と山下。「息子か?」と田畑。男性の見た目は、道野良子よりずいぶんと若い感じがする男性だ。息子と言われれば、息子に近い年齢かもしれない。

「映像、再開してください」と田畑が言うと吉野は映像を再生した。映像の中の男性は、周りをキョロキョロしながら、道野良子の家の呼び鈴を鳴らす。それに反応して、家の街灯が点灯し、すぐに道野良子が家から出てきた。道野良子と男性は一言二言話し、家の中に入っていった。「息子ではないな。知り合いみたいだな」とその様子を見て田畑が言う。「そうですね。息子さんではなさそうな感じですね。」山下もうなずく。

それから三時間程何の動きもなかったが、時刻が午前二時を過ぎたころ、男性が家から出てきた。男性は、辺りを見渡しながら、家に鍵をかけた。そして、キョロキョロとしながら急ぎ足でカメラから姿が見えなくなった。

「さっきの男性の映像をプリントアウトしてもらう事ってできますか?」と田畑が吉野に聞く。「はい。できますよ。今、出しますね」と吉野。防犯カメラの映像を少し巻き戻し一時停止し、パソコンを操作し始めた。そして、「今、映像が出来る簡易のプリンターを取りに行ってきますね」と言い、部屋を出て行った。

「男性、帰りましたね」と山下。「そうだな。鍵をかけて出ていったな。彼は、来るときはチャイムを鳴らした。じゃあ、あの鍵は誰のだ? もしかしたら、彼が、道野良子を最後に見た人物になるな」と田畑。吉野がプリンターを持ってきて先ほどの男性の映像をプリントアウトし始めた。男性の顔が映像よりもさらにしっかりと判別できるぐらい映っていた。

「映像が鮮明ですね」と田畑が感心すると「高性能のカメラですからね」と吉野が自慢げに言った。そして、吉野は先ほどの続きの映像を再生し始める。

防犯カメラの表示時刻が午前三時半を過ぎたころ、人の姿がカメラにうつる。「ちょっと、止めてください」と田畑が言った。吉野がカメラの映像を止める。

「さっきの男性ですかね」と山下がいい、田畑と先ほど吉野にブリントアウトしてもらったものと照らし合わせる。

「同一人物と見ても良さそうだな」と田畑。

男性は、大きなスーツケースを持っていた。今度は、家の呼び鈴を鳴らさずに自ら鍵をあけ、中に入っていく。そして、すぐに手ぶらで玄関から出てきた。スーツケースを家の中に置いたようだ。男性は、すぐに映像から見えなくなった。どこかに行ってしまったようだったが、すぐに戻ってきた。

今度は、何か重そうな容器を抱えていた。「止めてください」と田畑が言う。吉野が映像を止める。二人で映像を凝視する。「灯油缶ですね。」と山下。「そうだな。灯油缶だな」と田畑。男性は、灯油缶を持って家の中に入っていった。

嫌な感じしかしない。

映像を再生してもらい、田畑と山下は互いに頭の中でこれまでの流れを整理していた。一時間半ほど経ったところだろう、映像の時刻は午前五時を過ぎていた。男性が、スーツケースを持って出てきた。とても重い荷物らしく、少しの段差にも手こずりながら、防犯カメラの映像から見えなくなった。

「荷物の出し入れをしているとなると、現場近くに車を停めているのかもな」と田畑。

時間も時間だし、あんな荷物を持って、公共交通機関を移動していると目立つ。それにすぐにタクシーがつかまる場所でもないし、最寄り駅も歩いて三十分以上はかかる。

「もう、戻ってこないですかね」と山下が言った時に、男性が戻ってきた。

また、家の中に入る。今度は、十分も経たないうちに灯油缶を持って家から出てきた。中味が空になったのだろう、軽い様子で振り向きもせず、小走りでカメラの映像から消えた。

「火をつけたのかもな」と田畑。時刻的に火災が起こった時刻だった。しばらくすると、家から火が出てきた。燃え広がる家。玄関が見る見るうちに崩れていく。それからしばらくして消防が来たらしく、映像に放水の水が映る。

「終わったな」と田畑。「そうですね」と山下。今、起こっている現実でなく、もう起こってしまった出来事を録画で見ていると思っても、一連の犯罪の流れを見せつけられるとなんともいえない気分になり、ものすごい疲労感が襲ってきた。田畑と山下は、消防が消火する映像をじーっと見ていた。「最後まで見ます?」と聞いてきた。田畑と山下が我にかえる。「あっ、もういいです。ありがとうございました。」と田畑。もう動く気力さえもなくなりそうだった。でも、そんなわけにもいかない。

「すみません。ちょっとお話いいですか?」と田畑が吉野に聞く。吉野は自分が話を聞かれるとは思ってはいなかったのだろう。びっくりした様子で「あっ。はい。」と答えた。

「道野さんって先ほど映っていた女性ですよね。」と田畑は言い、質問を続ける。「道野さんって、いつごろ防犯カメラを設置されましたか?」と田畑。吉野は、映像とともに持ってきたファイルを手に取り目を通す。「三か月程前ですね」と吉野。「三か月前ですね。防犯カメラを付けた経緯とかわかります?」と田畑が聞くと「あぁ、覚えていますよ。珍しいお客様でしたから。それに僕が担当でしたし」と吉野は言い、「道野さんは、ネットで防犯カメラを調べていたら、うちのホームページを見たらしく、個人でもカメラがつけられるかどうか訪ねて来られて。なんでも、女性の一人暮らしの上に近所に家がないから、もしもの時に怖いからと。それなら、うちが個人宅にしているセキュリティをお勧めしました。でも、防犯カメラがいいと言われました」と吉野は続けた。

「はぁ…… 。防犯カメラがつけたいと」と田畑。

「そうですね。でも、カメラじゃ何かあった時にすぐに駆け付けられないですよね。こんなことなら、もう少し警報器の付いたホームセキュリティの方も強く勧めとけばよかったです」と悔やむ吉野。

「防犯カメラがいい……ね…… 」とつぶやく田畑。道野良子が何を意図として防犯カメラをつけたのかどうかはわからないが、結果として捜査に役立っている。ただ、本人が行方不明だが。

「ここまでの映像が欲しいんですけど」と田畑が吉野に言うと「わかりました」と吉野は言い、「一週間分も要ります?」と聞いてきた。

「できれば、一週間分もいただきたいです。どのくらいの時間がかかります?」と田畑が聞くと「一週間分となりますと、少しお時間かかりますね。」と吉野。それを聞いた田畑は、「今日見た所だけ、早くいただけますか?」と聞くと「すぐ出来ると思います。半日分ぐらいなので」と吉野が言った。「すみません。あと、道野良子さんの画像もいただきたいのですか」と田畑が言うと、「わかりました」と吉野。

田畑は、メモ用紙をポケットから取り出し、自分の携帯電話の番号を書き「終わったら、この電話にかけてもらっていいでしょうか」と吉野にメモを渡した。吉野はそれを受け取り「わかりました」と言った。

「では、よろしくお願いします」と田畑と山下が立ち上がり帰ろうとした。

すると、吉野が「すみません。捜査情報だと思うので答えてもらえたらでよろしいんですけど、道野さんって行方が分からないんですか?」と言った。「まあ」と曖昧な返事を田畑がする。今までの自分たちの反応と防犯カメラの映像で何となくは吉野も分かってはいるだろう。すると、吉野は、そわそわと何か知っている様子を見せた。

「何かご存知ですか?」とその様子に田畑が問うと、「個人情報なので、言っていいのかわからないですが。先ほどみたいな思いをするのは…… それに気になってた事なので」と吉野が言い、続けて「道野さん、身体にGPSを付けていました」と言った。

その言葉に田畑と山下は、顔を見合わせた。吉野が言った言葉をすぐには理解ができなかった。「GPS…って、あのGPSですか? 付けていたという事は、普段から持ち歩いていたってことですか?」と確認する様に田畑が吉野に聞く。

「いやー。持っていたって表現になるのかな。持つというよりは、身体の一部的な」と吉野が言う。

「ん?」さらに理解不能になった田畑が怪訝そうな顔をする。

「身体に埋め込んでいました」と吉野。

「ん?」田畑は、怪訝そうな顔でさらに首まで横にかしげた。“埋め込む”という表現が田畑の理解の範疇を超えた。

「埋め込んでいたといいますと?」と吉野に聞く。

「防犯カメラの設置の時に教えてもらいましてね」と吉野。「ものすごく小さいものを身体に埋め込んでいらっしゃるみたいで。なんでも、海外で入れてきたってお話しされていて。日本の警備会社さんもやればいいのにって言われて……。最近、認知症の方も増えてきていますから」と続けた。

確かに、認知症の老人の徘徊は、家庭内で色々な対策をしていても、難しい所があるのも現実だ。動物の生態を知るためにGPSを付けるというのは知っている。海外でも犯罪者に使用したりしているのも知っている。でも、どれも大体は取り外しが可能なものだ。埋め込むとなると安易には取り出せないし、プライバシーの問題が関わってくるだろう。でも、自ら埋め込むのは問題ないのかもしれない。とはいえ、四六時中誰かに見張られている気分はあまり良いものではない。道野良子は、何のためにGPSを体内に埋め込んだのだろう。

でも、もしその話が本当ならば、道野良子の足取りはすぐにわかる。でも、その情報をどうやって見るのかが問題だ。

「そのGPSは、本物ですよね? 」と田畑が聞くと、

「携帯で位置情報を見ましたら、かなり高性能らしく、1メートルぐらいしか誤差が無いみたいで、その時はピタリとその場所でした」と吉野。

「えっ 。位置情報も見せてもらわれたのですね」と驚く田畑。「そうです」と吉野が答える。

それにしても誰に発した位置情報なのだろうか。

「ちなみに何でGPSを埋め込まれたのかご存知ですか?」と田畑。

「そこまでは…… 分からないです。 プライバシーですから、受け身的な話しか聞いてないですね 」と吉野。「ですよね……。そのGPS情報ってどのサイトから見ていたかは覚えていらっしゃいますか?」と田畑。さすがにそこまでは教えている事はないだろう。

「それが、どこの会社のGPSなのかはウロ覚えですけど、暗証番号は覚えています」と吉野が話す。

「えっ?」と田畑がびっくりする。GPSを埋め込んでいると聞いているだけでも驚きなのに、さらに暗証番号まで知っているのか。理解の範疇を超えることが起こりすぎて、田畑の脳内はバグをおこしそうになる。

自分の位置情報を赤の他人に教える。犯罪者でもないのに。

プライバシーよりも自分の身に起こる何かに恐怖をおぼえていたのか。自分が何かに巻き込まれることを知っていたのか。

「暗証番号、道野さんの誕生日でした。道野さん、笑って言いました。“誰にでもわかるように誕生日にした”って。もし、カメラの月会費を滞納したら、探してもいいよーなんて言われたので、冗談だと思いました。でも、こんなことが起きると、遠回しにsosを出していたのかなと」と苦悶の表情の吉野。確かに、そんな話をされたら冗談だと思ってしまうだろう。ましてや、身内でもないし、守らないといけない相手でもない。

田畑も山下もかける言葉がみつからなく、神妙な面持ちになる。

「まぁ、本人がきちんとしたSOSを出していたなら話も分かると思いますがね。そこまで気付くのは難しいと思いますよ」と田畑が言う。

「そう言ってくれると少しホッとします。警察から電話が着た時、気が気じゃなくって」と吉野は少しホッとした表情を見せた。そして「カメラの映像が出来次第連絡します」と吉野が言った。

田畑と山下は、吉野にカメラの映像の手配をお願いし、署に戻ることにした。

「GPSを身体に埋め込むとはな……。えらい世の中になったものだ」と帰りの車内で田畑はブツブツと独り言を言った。

署に帰る車の中、静かだった。田畑も山下も警備会社で得た膨大な情報を頭の中で、整理していた。一気に情報がドバっと入ってきたので、見落としがないか頭の中で、思い出しながら整理する。

事件の鍵をにぎる重要参考人もわかった。誰かはまだ分からないが。火災につながる流れも防犯カメラの映像から何となくわかった。被害者の体内にGPSが入っている事もわかった。ちょっと理解しがたい話ではあるが、吉野の態度から嘘という事はないだろう。

車内から、小林に電話を掛ける。

「カメラに何がうつっていました?」と小林。映っていた事前提で話を始めた。

田畑が、警備会社で見て来た事、聞いてきた事を説明する。

一通り説明が終わると小林が「防犯カメラを設置したのは、ご本人だったわけですね。じゃあ、街灯も彼女が付けた可能性が高いですね」と言った。

「街灯?」と田畑が聞く。田畑に道野良子に繋がる街灯はわからなかった。

「防犯カメラの映像が鮮明じゃありませんでした?」と小林。

「あゝ、鮮明だった。良いカメラを使っているそうだ」と田畑が言うと「良いカメラ……。面白いですね。それとは別にカメラの映像が綺麗に映るように街灯も付けてあったはずです。妙な所に街灯があるなと思いましたから。あとなぜ防犯カメラを隠すように設置していたのかが気になりました 」と小林。

「カメラの設置場所と街灯ね…… あとで警備会社から連絡があった時に確認してみる。でな、もう一つ。道野良子は、体内にGPSを埋め込んでいたぞ 」

と田畑。

「体内にGPSですか。それはまた興味深いです……ね 」と小林が、吟味する声で答える。

「だろう。で、横領はあったのか?」と田畑が小林に聞く。

「それは、事実でした。今の今、発覚したから、会社は大変な事になっていいますよ」といい、「会社が帳簿を確認しているところですね。あっ、その男性の写真を私の携帯に送ってもらえますか」と小林。

 田畑が男性の写真を写メに取り、小林に送る。

 すると、小林が「道野良子さんの会社の男性で、黒木という名前の男性です。」と即答した。

「えっ?」田畑は小林が、画像を見ただけでスラっと名前まで答えたのに驚いた。「気にかかる行動をしてくれていたので」と電話越しに笑ってる小林。田畑は小林の答えに苦笑した。小林らしいと思ったと同時に小林の観察眼にも驚いた。

「で、彼はどんな人物だった?」と田畑が聞くと

「年齢は二十代前半ですね。道野涼子さんの机の斜め前の席です。同じ部署で働いていましたが、道野良子さんはバート勤務で、黒木くんは正社員です」と小林が言った。

「彼は、事件に関わっていると思いますよ。私の動向を気にしないふりをしながらずっと気にしていましたから。とても面白かったです」と小林は付け加えた。

「黒木は、事件の何に関わっていますかね。横領?それとも放火の方かな」と隣で運転をしながら電話の内容を聞いていた山下がポツリと言う。山下にも聞こえるようにスピーカーで電話をしていたので、小林にも山下の声が聞こえたらしく「すべてだと興味深いです」と小林は言い、電話を切った。

 署に着くころに小林からまた電話がかかってきた。

「道野良子さんの上司に話を聞いたらですね。横領は、どうも道野さんがやれるものではないみたいです。直接、お金をやり取りする仕事はしていなかったので、違う人物が関わっていたのではないかと頭を抱えていました。」と言った。

「それでですね、上司の方にその人物って、黒木くんですか?ってボソッと言ったら、驚いた顔をしていました。その顔、見せたかったなぁ。男性の映像も確認してもらいました。黒木くんでした。」と小林は楽しそうに言った。

署に着いて、田畑は小林にしたのと同じ説明を皆にした。“遺書”のコピーが先に署に届いていたため署内では、“横領が発覚したための自殺”という事で解決しようとしていたので、皆がざわついた。田畑は、小林から聞いた横領の調査状況も説明した。皆の顔がみるみるうちに曇っていった。

防犯カメラの映像を待つ間、田畑はGPSについても話をした。すると、皆の表情がさらに信じられないとなり、騒然となる。誰も聞いたことのない話だった。ただ、海外で入れたとなると道野さんの渡航歴を見れば、どこの国でGPSを身体にいれたのかわかるかもしれないとの意見が出た。契約書が見つかればいいのだけれども、家があの状態ではもう灰になっているだろう。

そんな話をしている所に先ほどの防犯カメラの半日分の映像を届けに吉野が署を訪れた。田畑は、先ほど小林が言っていた街灯の話を吉野にする。

「道野さん宅の街灯って、防犯カメラと一緒に設置しました? 」と田畑が聞くと

「えぇ、よくわかりましたね。あの防犯カメラの性能で、映らない事も無かったのですが、あの辺りは街灯が少なくって、夜になると昼間よりも映像の質が落ちてしまうのを道野さんが気にされていて、街灯まで設置されていました 」と吉野。田畑が感心しながら「防犯カメラもわざと隠すように付けました?」と聞いた。すると「さすが警察のかたですね。そうです。防犯カメラって犯罪の抑止の為にわざと見えやすい場所に設置したりするんですけど、道野さんは“絶対にカメラが分からない様に設置してください”と言われました 」と吉野が言った。

吉野から防犯カメラの映像を受け取り、皆でそれを見る。見ながら時折歓声があがる。

「この防犯カメラってすごいですね。ここまで顔がわかると、こわいですね。完全な証拠になりますね」と皆が口々に言った。

映像の男性を任意同行する方向になる。

「課長、いいですね」と田畑が言うと、課長が「そうだな。横領にも一枚かんでいる様子だしな。何か知っているだろう」と言い、「署長にこれ見せて、確認取ってくるわ。」と課長が部屋を後にする。

皆が、少しホッとした雰囲気になった。あとは、証拠と裏付けをしていけばいい。初めの事件概要と、話が違ってきたが事件解決は見えてきた。でも、防犯カメラが無ければ、火災現場の女性の単独犯として処理されていたかもしれないと思うと、胸がモヤモヤっとしてくる。

しばらくすると、課長が血相を変えて部屋に入ってきた。

「黒木を署に呼べない」と課長。その場にいた皆の表情が険しくなる。

「どういう事ですか?」とその言葉に納得できない田畑が即座に言う。

「署長から、ストップがかかった」と課長。それを聞いた田畑が、署長室に向かう。黒木が重要参考人である事は、防犯カメラの映像を見れば一目瞭然だ。黒木本人は警察が動いているのも知っているし、横領も係わっているかもしれない。早く話を聞かないと、証拠はドンドン消されていくだろう。田畑の怒りがドンドン上がっていく。

田畑は、署長室めがけて行く。

「署長、どういうことですか?黒木を呼べないって」と田畑が署長室に入るなり、署長に食って掛かる。

突然、部屋に入ってきた田畑に署長は驚くも「とにかく、任意同行はまだだ」と言った。田畑が、怪訝そうな表情をする。

「署長も、先ほどの防犯カメラの映像をみましたよね」と田畑が言うと、「見たは見たが、あの証拠じゃ任意同行まではいかないだろう」と署長が答える。完全なる屁理屈だ。

署長の態度に田畑がため息をつく。あの防犯カメラの映像だけで、充分な証拠になると思う。「あの映像だけじゃ、証拠としては薄いという事ですか?」と食って掛かる田畑。

「そうだ。ただ、あの家に出入りしていたというだけじゃないか。それに遺書もあるって言うじゃないか。殺しではなく、自分で放火していて、どこかで自殺している可能性もあるよな 」と反論する署長。

その署長の態度に「署長、防犯カメラの映像を見ました?火災がおこる少し前に火災がおこった家に出入りしていたのは彼だけですよ。彼が家に来た後で女性がと行方不明になっていますよね。それだけで、重要参考人にはならないですかね?」と田畑の声がどんどんと荒くなる。その時、田畑の腕を誰かが掴んだ。田畑がその相手を見ると、そこには小林が立っていた。田畑が驚き小林を見る。

「署長、任意同行の件、わかりました」と小林がニッコリと笑みを浮かべ言うと、「おい、お前!」田畑が小林にくってかかる。

それを無視し、小林がにこやかに「行きましょうか」と田畑に言う。そして「失礼しました」と署長に一礼し、小林が田畑の腕をひっぱり署長室を出て行く。「おい、小林」と田畑が何度も言うも、小林は無視したまま、ずんずんと田畑を引っ張り歩く。

そして、ひとつの空き会議室に入った。

「おい、小林」と田畑が声を荒げながら、小林の手をふりほどく。

「なんでだよ」と怒り口調の田畑。「何かありますね。黒木には」と小林。「何かって?」と怒りの収まらない田畑が喰って掛かると「何かはわからないですが、もうちょっと周りを固めないといけないのかもしれません」と冷静な小林。

「あの防犯カメラで証拠としては充分じゃないのか?」と田畑が言うと「普通は、あれだけで充分ですがね。あれだけで充分じゃないとすると、推測するに黒木本人なのか、黒木のまわりなのかは分からないですけど、誰か警察に力の効く人物がいるのかもしれません。黒木の年齢からすると黒木の周りだと思います」と小林。

そこまで聞いて田畑はやっと事の次第を理解した。

「あぁ」と納得しながら悔しがる田畑。そして「流石だな。小林」とようやく表情が落ち着いた。小林の客観性が有難いと感じた。

「でも、何で小林は署長室に居たのか?」と田畑。「署に戻ってきたら、田畑さんが血相変えてどこかに行こうとしているのを見かけたので、着いていっただけです」と小林。

そして「黒木くんから簡単に話を聞けないとなるとさらに燃えますね」とニヤリとした。

部屋に戻ると、皆が一斉にこちらを向いた。「どうだった?」と誰かが言った。田畑が、署長室であったやり取りを話すとあちらこちらから、ため息が聞こえてきた。落胆する同僚に

「まだ、終わったわけじゃない。黒木を呼ばなくても調べられることはある」と田畑が皆に声をかける。

納得いかないが皆が渋々うなずく。もどかしさを腹の中に抱える。でも、あきらめたくない。気持ちの切り替えも大事だ。まだ、任意同行できないと決まったわけでもない。でも、署長の態度を見ると可能性は薄い。

「黒木くんの後ろにいる誰かさんに一泡吹かせましょう。お前何様だよって」と小林が言う。少しみんなの気持ちも上がってくる。

残る道は道野さんのGPS情報を割り出し、道野さんをみつけてからになるのだろうか。「そういえば、署長はGPSの話を知らなかったけど……」と田畑。「防犯カメラ見ながらの様子がおかしかったから、黙っといた」とニヤリとする課長。「じゃあ、署長は道野良子にGPSがついている事はまだ知らないですね」と田畑。課長がうなずく。

その時、部屋の内線電話がなった。小林に会いたいと“黒木さん”が受付に来ているとの事だった。

「黒木さんですか?」と小林が聞くと

「はい。“黒木さん”です。ご存知無いのですか? 」と受付をした署員が小林の声の様子を不審に思ったのか訊ねる。

「あぁいや、知り合いでした。古い方だから思い出せなかっただけです 」と小林が慌てて弁明する。

黒木が小林に会いに来るとは思えなかった。先ほど会った道野良子さんの会社の“誰か”になる。でも、なぜ本名を名乗らないのかは小林にもわからなかった。

小林は、受付に向かう。そこに居たのは、道野良子の上司だった。

「あぁ、先ほどはどうも。こちらにどうぞ 」小林の様子を先ほどの受付をした署員がジッと見ている。先ほどの受け答えがよほど不信に思えたのだろう。だが、小林の“黒木”との対面を見て不信はぬぐわれたようで、小林が“黒木”迎え入れるとホッとしたように目を離した。

部屋に入ると「どうしました? 」と小林が聞く。上司が「私のロッカーに入っていたものです。“警察の方へ”って書いてあったので。多分、道野さんが入れたものだと思います。 」と言い、分厚い長形三号の茶封筒を斉藤に渡した。

「会社内で何かありました? 」と小林が聞く。“黒木”と名乗った理由が知りたかった。上司の目が伏し目になる。そして、「横領は無かった事になりました。言えるのは、それだけです。ただ、道野さんにはお世話になりましたので、少しでも恩返しが出来たらと思いまして 」と言い、上司は足早に部屋を出て行った。

小林は受け取った封筒を眺めながら、「“黒木くん”は、何者だろうな。二十歳そこそこの彼に何か出来る力があるとも思えないし……。横領をもみ消せるだけの力を持つ何かと繋がっているのだろうな。でも、それを凌駕するものを置き土産にしている彼女も面白い。ますます面白い展開になってきたな」 とつぶやき中身を確認する。カギと場所の記されたメモが入っていた。

記されたメモによると、道野良子が会社の通勤に利用する駅だった。小林は、鍵を確認する。鍵には、番号が記されていた。駅のコインロッカーの鍵だろう。署からは、そう遠くない駅だった。小林は部屋を出て、署の敷地内の自転車置き場に行く。小林の移動は、大概が自転車だった。記されていた駅は、自転車だと十分ぐらいの距離の所にあった。そこを目指す。

「はっくしょん」

自転車で走ってすぐに小林は寒い事に気が付いた。話の展開が面白すぎて、事件に集中し過ぎたらしい。寒空の中をコートも着ず、スーツ姿で自転車に乗っていた。

駅に着くと、ロッカーを探す。そんなに大きくはない駅なので、ロッカーの場所はすぐにわかった。鍵の番号を確認し、ロッカーを開ける。中に今度はA四サイズの封筒に分厚い資料とUSBが入っていた。自転車に戻り署へ帰る。

署に資料を持ち帰ってロッカーに入っていたものに目を通す。

入っていたものは、横領の資料とGPSの契約書の書類、パスポートにDNA鑑定の結果の書類が入っていた。USBには、それらと同じものがはいっていた。

小林が、それらを見ていると田畑が寄ってきた。

「新しい情報でも見つかったのか? 」と田畑。

「田畑さん。面白いものが手にはいりましたよ」と小林はいい、田畑に見せる。

「これって……。欲しい資料ばかりだな 」と田畑が歓喜する。「でも、どこで手に入れた?」と田畑。「道野さんのファンの方から」と小林。田畑は首をかしげるが、小林やにそれ以上聞いても無駄な事だとわかっていた。

田畑の声に他の署員も集まってきた。

横領の資料を読み込んでいくと、横領したのは黒木であるとの事が調べられてあった。

「これ、言い逃れできないぐらいしっかりとした証拠ですね。この事って会社の方はご存じですかね? 」と山下。「横領はもみ消されたらしいですよ」と小林。

「そうか…… 」と田畑。「署長の態度を見ていたら、そんな感じはしていたがな 」と続ける。

そして、一番知りたかったGPSの契約書を見る。GPS情報を見るためのURLが書いてあった。読み進めていくと、暗証番号の書かれたページがあった。警備会社の吉野が言っていたとおり、暗証番号は道野良子の生年月日であった。

はやる気持ちを抑えながら、インターネットでGPSの位置情報がわかるサイトをひらく。パスワードを入力の所に道野良子の生年月日を入力する。しばらくすると検索結果が出てきた。吉野が言っていた通りだった。

そのGPSは、地図の一か所を指していた。

GPSが指している地図をドンドン拡大していく。場所がドンドンはっきりとしてきた。署の管轄内の山林の道路際を指していた。あまり好ましい場所ではない。

「プリントアウトして」誰かが言った。田畑と山下と数名、出掛ける準備を始めた。

「小林は行かないのか?」と田畑が言うと「身体が冷えたので、待機しています」と小林は言った。

プリントアウトの地図を持ち、GPSが指していた場所を目指す。

署から一時間ほど離れている山林の道路際を指していた。地図上は、そこが平面なのか段差があるのかはわからなかったが、山の入り口に着いてみると、その山林の道路際は崖だった。そこを指していることで道野さんがどういう状態なのかなんとなく察しがついた。GPSだけが取り外されて、投げ込まれている可能性もある。しかし、皆が最悪な方向の事を考えていた。

車の中は終始無言だった。

GPSの示す地図の辺りに近付いてみると、山の入り口よりもさらに崖は急になっており、谷底と言ったほうが当てはまる。車を停め、降りられる場所を探す。少しずつ降りられる場所を探りながら、田畑と山下は降りる。

「ありました。」先に降りて行った同僚が声を発する。田畑と山下も声のする方に急いで向かう。そこには、身体も顔も傷だらけになり、明らかに生きてはいない女性がいた。最悪の結果だ。

「道野良子さんか?」と誰かが聞いた。遺体の損傷具合からして道路の上から投げ落とされたのであろう。顔にも傷はついており、きちんとした判別は難しかった。

身元確認しないとはっきりとしたことはわからなかったが、経緯からみて道野良子で間違いはないだろう。田畑は、署に電話をして鑑識と道野良子を運ぶ手配をした。

損傷が激しかったが、損傷部位から出血はしていなかった。死後投げ落とされたのであろう。身元がわかるものは何もつけては無かった。封筒に入っていたDNA鑑定の結果が役に立つだろう。田畑は、少し怖くなってきた。

「署長がなんと言おうと、黒木から話を聞かなければだめですね」と山下が言った。「あぁ、でもまだ黒木が殺したという証拠はないからな」と田畑。

署に帰ると小林は出掛けていた。田畑に客人がきていた。警備会社の吉野であった。

「映像データの件ですよね。わざわざ届けてくださってありがとうございます」と田畑が言うと吉野の顔色が冴えない。「どうかしました?」と田畑が聞くと「映像データは、社内規定により渡せないことになりました。プライバシーの事も本人の承認が必要だと。」と吉野が言いにくそうに話す。

「えっ? 本人の承認って。本人と連絡が取れないから…… 」と田畑が言うと「申し訳ありません」と吉野が深々と頭を下げる。そして「先ほどのデータも返していただけますか?」と言った。「えっ? 今、鑑識にもっと詳しく見てもらっていますけど」と田畑が言うと「申し訳ございません」と吉野はまた頭を下げた。

田畑は、言いたいことをグッと堪えた。吉野を見ていたら、彼が本意で行動していないのは手にとってわかる。そう、仕方がないのだ。「わかりました」田畑はそう言い、「先ほどのデーターを取ってきますね」と言ってその場所を後にする。

またしても、捜査の妨害が出てきた。「何が、警察だ。全然、警察じゃないじゃないか」鑑識の所にデーターを取りに行きながら田畑はブツブツと怒りを口にした。

鑑識に行き、映像データを帰さないといけない事を告げ、映像データを手に吉野の待つ部屋に向かう。本当はいけないのだが鑑識に頼み、映像データのコピーを取ってもらった。向こうもこちらがそうすることを分かっていながらも原本は返してもらわないといけないのだろう。

 部屋に入り、映像データを吉野に返す。

「すみません。ありがとうございます」と吉野はまた深々と頭をさげた。

そして「これ、田畑さんにお手紙です。個人的に書いたので、個人的に読んでください」と一通の封筒を渡された。田畑は意味がわからないまま封筒を受け取った。

吉野が帰った後、田畑は封筒を開ける。中にはUSBメモリが一本入っていた。

田畑はそれをパソコンにつなぐ。すると、警備会社に保管されている道野良子の防犯カメラの一週間分の映像データーが入っていた。田畑は驚き、USBメモリと一緒に入っていた紙を開く。そこには“僕の気持ちです”と書かれていた。
生きていた時の道野良子さんの行いが良かったのだろうか。壁が出来たと思ったら、すぐに迂回路ができる。

小林は、黒木について調べに行っていた。

黒木は、産まれてからずっと今と同じ町に住んでいた。地元の幼稚園・小学校・中学校に通っていて、中学2年の時に隣町の私立中に転校していた。引っ越しはしていない、校区外通学である。

ちょうど、黒木が私立中に転校する少し前に黒木の通っていた地元中学校で1人の男子生徒がいじめを苦に自殺する事件がおきていた。それを嗅ぎつけたマスコミが、報道を始めて事はどんどん大きくなり、最終的にはもうひとり亡くなった。

表向きでは、黒木は関わっていなかった。だが、斉藤は、その転校に違和感を覚えた。

時期がおかしい。いじめ事件に黒木は関わってるとふんだ。

私立中だと、当時いた職員も変わってないかもしれないので、転校の経緯を聞く事にした。8年程前の事である。誰かが覚えている事を願いながら向かった。

隣町にあるために署からは、バスで一時間ほどでついた。

事務室に行く。

「生徒に詳しい方っていらっしゃいます。八年前の話なのですが」と警察手帳を見せていうと、皆が一斉に奥にいた女性を見た。そして、その女性が「はい。」と怪訝そうな顔をしながら、小林の元に来た。

「お仕事中、すみませんね。ここの学校って転出入って多い方ですか?」と小林。

警察が来たとなると、好奇心がわくのもわかる。事務室の皆が聞き耳を立てているのがわかった。小林は女性を、他の人から話の聞こえないところまでつれだす。

「転出はまずまずいますけど、転入はいませんね。居るとしたら、理事長の知り合いの子たちが高校卒業するのがどうしょうもなくって入ってくるぐらいかな」と女性は苦笑いしながら言い、「あっ。これオフレコで。捜査に関係ないでしょ。」と続けた。

「七、八年前の話になりますけど、黒木って男の子も入ってきませんでした?」と小林が聞くと、しばらく考えた後、「八年前って言うと、今いくつの子達だっけ。あぁ、入ってきましたよ。黒木大臣の息子ね。理事長の知り合いの様で。あの子は、編入試験もせずに顔パスでしたね。あの時は、寄付金をお土産に。でも、一日も通わなくって。あっ、これもオフレコで。通ってないのに通っている事になっていて。なんか親の地位とお金で学校の卒業をもらえるって嫌だねーって話していた気がします」とズバズバと話してくれた。

「学校にきてないって事は、病気とか何かだったんですか?」と小林が聞くと、女性か首をかしげながら「いゃ。そうじゃないと思いますよ。」といい、少し小声になって「あくまで、当時の噂だったわけですけどね。黒木大臣の息子が入学してきた時にちょうど黒木大臣の息子が前に通っていた中学校で、いじめによる自殺があったみたいですよ。だから、黒木大臣の息子がいじめていた本人じゃないかって。何か、前の学校じゃいい話を聞かなかったらしいですし。まぁ、違う子がいじめてたってマスコミは言ってたみたいだけど」と言った。

「その話って、ウワサではなく?」と小林が女性の目をじっと見つめる。

「刑事さんってこちらの人?」と女性が聞いた。

「いえ。地元ではないです」と小林が言うと、「最近、こちらの署に転勤になったの?」と女性が聞く「そうですね。三年ぐらい前からですかね。」と小林が言うと、「これも、あくまでも噂だからね。でも、噂は元がないと噂にはならないから」とにゃっと笑い、

「隣町とはいえ、仕事先が一緒だったり、友達の子が通っていたりするからね、当時は大きな話題になっていたから、みんな聞きたがっていたし、だから、尾ひれが大きくなったかもしれないけどね」

「当時、警察は?」と小林が聞くと「ほら、親が親だし。あなたも知らなかったんでしょ」と女性は苦笑いをした。

女性に礼をいい、小林は学校を後にした。確かに、小さい管轄では違う署にいたが、大元は一緒だ。そんな事件があったなら署内でも話に上がるだろう。でも、聞いたことがない。普段テレビを見ないので、警察に入ってくる事件・事故しか知らない。

「大臣の息子か……。どうりで」

 フッと笑みを浮かべて、小林は歩き出した。

中学・高校との同級生を訪ねたが、誰も黒木を知っている人がいなかった。

しかし、ここも書類上は、三年で単位をきっちりと修得し、欠席日数も規定内になっていた。大学は、元の地元になる私立大学に推薦で受かっていた。大学からは、自宅からそう離れていないアパートを借りて暮らしていた。大学で、黒木と同じ学部の生徒は黒木はたまに見るとの事であり、通っていた形跡があったが、人とのかかわりを避けていたようだ。黒木と一緒に居たという人物が見当たらなかった。

職場は、横領の事件で、警察による捜査を一切シャットアウトしており、どのように採用されたのかはわからなかった。

職場でも、他人とのかかわりはなかった。飲み会にも参加する事がなく、皆、おとなしい人物だと感じていたらしい。

ただ、大学から仕事までで、皆が共通して言ってたことは、時間さえあればスマホをいじっていたという事だった。休み時間は、必ず一人でスマホとにらめっこ。生活は質素だった。ギャンブルをしている様子も毎晩飲み歩いている様子もみられなかった。自宅と職場との行き来の毎日だったみたいだった。

 小林は、道野良子について調べに行った。

道野良子の産まれも育ちも他県だったが、結婚して姓が渡辺になり、署のある町、今現在住んでいる町、そして黒木と同じ町内に住んでいた。結婚して五年後に息子を出産している。子どもの名前は、蓮。

蓮は、黒木と同級生だった。道野良子と黒木の接点は会社だけかと思っていたら、ずいぶん昔に濃い接点があった。会社での様子では黒木は気付いていなかったようだった。蓮は、黒木と小学校時代から同じ学校に通っていた。同じ学校に通っていたが、そこの地元の子どもは皆同じ小中学校に通うので、一緒といっても交流があったかどうかはわからない。

蓮は、近所でも評判の礼儀正しく、頭のいい、優等生だった。道野良子の自慢の息子だった。

蓮と黒木が中学に入ると学校で“いじめ”があった。そんな中、いじめを受けていた子が自殺する。嗅ぎつけたマスコミが大勢、学校に押し寄せた。ネット上でも犯人探しが始まっていた。ここまでは先程の女性の話と同じだ。

話はここからがまた小林の興味を掻き立てていく。

ネット上に“いじめをしていたのは渡辺蓮。”という書き込みがあり、瞬く間に拡散していった。それを嗅ぎつけたマスコミは事実を確認もせずにネットの噂を疑う事もせずに流していた。

実際には、その男子生徒はいじめには一切かかわっていなかった。マスコミは、ちゃんと裏付けもせずにネットだけの話を信じ報道した。

だれが、そのような情報を流したのかは今となってはわからない。誰かちゃんとした大人が関わっていれば、特定できたのかもしれないが、中学生の力では無理だった。でも、中学の中では噂になっていた。情報を流した人物は、本当にいじめをしていた人物ではないかと。

ネット上でどんどん拡散していく偽のいじめをしていた人物。画像まで出回り、日本中どこにいてもその男子生徒が“いじめをしていた人物”として認識されていた。その真実が嘘という事も知らずに。

学校の先生は、“いじめ”に対しても“連の濡れ衣”に対しても何も対処してくれる様子がない。蓮は、みるみる精神的に疲労していった。道野良子は、先生に相談するも教育委員会に相談するも市に相談するも何の効果もなく、最終手段で引っ越しをしようとしていた矢先に蓮が自殺した。ついにその男子生徒は、その偽情報に堪え切れられず、自ら命を絶ってしまった。ネット上では、本当の事も知らずに正義の味方ぶった人たちが“正義が勝つ。”などと、喜び沸いていた。

道野良子の悲しみは、深かった。道野良子が住んでいた町で、蓮が自殺をしたのは、多数知っている人がいたが、蓮のお葬式をしているのを覚えている者はいなかった。現に蓮のお葬式を行った地元の葬祭場に話を聞いたが、両親だけで誰も呼ばす、行っていた。あまりにも印象的なお葬式だったので、葬儀会社の社員が十年程経つのにもかかわらず覚えていた。

蓮が亡くなってから、道野良子の姿を見かけたものはいなかった。蓮がなくなってすぐ、道野良子は離婚している。元夫は、今も同じ場所に一人で住んでいた。先ほどの話は元夫が教えてくれた。彼も彼なりにずっと心に残っているのだろう。年齢よりもずいぶんと歳をとって見えた。元夫は、離婚してから道野良子と連絡はとっていないとの事だった。

それからの事は、元夫が道野良子の友達を紹介してくれた。

それから道野良子は、いくつもの街を転々とした後、元居た町に戻ってきた。年齢が年齢だったために正社員にはなれず、パートをいくつも掛け持ちしていた。パートを掛け持ちしてお金をためている様子だったと当時の道野良子を知る友達は言っていた。彼女は道野良子が海外に行ったことも知っていた。ただの旅行だと思っていたらしいが。それからしばらくしてぷっつりと連絡が取れなくなったらしい。

時期を照らし合わせると、道野良子が一軒家を買って黒木の会社にパートに行くようになった時期と重なった。

たまたまなのかわざとなのかは、本人がいないのでわからないが、彼女は過去を消したかのようにみえた。

黒木と道野良子が色濃くつながった。

小林は、道野良子の上司に道野良子と黒木の関係を連絡して聞いてみた。

「いや。そんな感じは一切うけませんでした。えっ?以前からの知り合いですか?」と返答が返ってきた。

「鑑識、結果きました」鑑識が、道野良子の遺体の司法解剖の結果の書かれた紙を持って部屋に入ってきた。

部屋にいた皆が、結果の元に集まる。山下が、鑑識の結果が書かれた紙のコビーを配る。

そこに書かれていた鑑識の結果、遺体は道野良子だった。そして、道野良子の死因は、絞殺だった。首にハチマキ状のものの跡がくっきりとついていた。

身体は、様々なとこに打撲や骨折がみられたが、生活痕はなく、亡くなってから遺棄したものと思われた。GPSは腹部に入っていた。脂肪に包まれておりそれがクッションとなったのであろう、破損されていなかったので今回、遺体があった場所が特定できた。

「あと、もう一つ、マイクロチップも入っていました」と鑑識が言い「今、解析をお願いしている所です」

 マイクロチップという言葉にまたも驚く。

「体内にGPSにマイクロチップですか。なんかすごい世の中になってきましたね」と誰かが言った。犯罪抑制になれば、いいのかもしれない。ただ、プライバシーの問題がかかってこないか不安なところではあるが。今回はそれに助けられて捜査しているのも事実である。

重要参考人である黒木の取り調べは署長のゴーサインが出ずにまだ出来そうになかったが、道野良子の遺体がみつかったことでもう逃げようがなかった。田畑は、吉野がコッソリと持ち出してくれた一週間分の映像と格闘していた。

防犯カメラの映像のチェックもあとは、事件が起こる前日までになってきた。今のところ、道野良子の規則正しい日常生活を繰り返していた。訪ねてくる人もいない。道野良子が、朝、仕事に行き、夕方、帰ってくるの繰り返し。日中は、郵便配達人が、定期的に郵便を届ける。それだけが繰り返されていた。

事件、前日も朝、出勤する様子が見られた。夕方、定期的に帰宅する。「さして、何の変化もなかったな。」と田畑が大きなノビをした。

ずっと、上にばれないように隠れた所で映像を見ていたので、身体中が凝り固まっているのがわかる。でも、吉野が託してくれた大事な証拠だ。無駄にはしたくない。首をグルグルと回しながらみていると、田畑の目にいきなり男性の姿がはいってきた。田畑が食い入るように映像に目をやると、道野良子の家に訪ねてくる男性が映っていた。道野良子が、にこやかに対応し、家に入っていった。それから、たっぷり二時間程居ただろうか。玄関扉が開く。「あっ。カメラを見た」と田畑。興奮して独り言が大きくなる。玄関扉を開けた瞬間、男性はカメラの方を向いた。明らかにカメラを確認した様子だった。男性が帰る時、道野良子は何度も何度も深く頭を下げていた。男性も深く頭を下げながら帰っていった。黒木ではない、新しい人物に「誰だ?」と田畑。田畑は、小林に画像をメールする。「道野良子の会社にこの男性がいましたか?」と聞いた。しばらくしてから「自分が会った会社の関係者の中にはいません。」と小林から返信が届いた。

彼は、誰だろう。彼も事件に係わりのある人物なのだろうか。

小林がようやく外回りから帰ってきた。

黒木についての話をはじめた。

黒木は、署のある町の今も実家がある地元の小学校・中学校に通っていた。

黒木が、中学校の時にいじめが勃発し、自殺者が出たにも関わらずほんの少し紙面に書かれたぐらいでその後新聞にも報じられることもなくその他のマスコミも採りあげることはなかった。小林がその話をはじめると今も同じ署内にいる人間は覚えていたが、「確か、箝口令がひかれていたな。未成年の事故だからという事で。そのあとなぜかその話はうやむやに自然に消えた気がする。まだ、そのころはいじめが事件って意識が低かったしな。」と彼は言った。

このいじめは、いじめられていた生徒が学校内で飛び降り自殺をしたことで発覚した。発覚したというのは、大人が気付いた時であって、子どもたちの間では、早くからわかっていたみたいだった。

それとなく、先生に伝えようとするものもいたが、先生たちは、何も動いてはくれなかった。また、世間的には、いじめられていた子がいじめを苦にした自殺となっていたが、子どもたちの間では専ら、いじめていた生徒に脅されて飛び降りたんだという見方が強かった。

「その話を総合すると道野良子は、黒木の事を知っていたかもしれないな。その事務員の女性の話が本当だとすれば自分の息子を殺されたのも同然だしな。知っているとなると、黒木に恨みを持つよな」と安川。

鑑識から、体内に入っていたマイクロチップのデーターが取り出さたと連絡があった。

鑑識の職員が血相を変えてデーターのコピーを持ってきた。

「道野良子は黒木に恨みがあったんだと思います」

そこには、道野良子のSNS内容が記載されていた。一人の人物と熱心にやり取りをしていた。その人物が黒木だったのだ。

やり取りは、道野良子の息子が亡くなってからしばらくたってから始まる。

はじめは、他愛のないやり取りからはじまり、道野良子が黒木の悩みに答えていたり、励ましていたりしていた。そして、道野良子は言葉巧みに黒木からお金をもらっていた事だった。文面から道野良子は“沙智”という偽名を使っており、年齢も黒木より2歳ほど少し年上の他県に住んでいる事になっていた。黒木もそれを信じている様子だった。道野良子も用意周到に自分とは違う黒木に伝えている年齢相応の女性の写真をSNSにあげていた。

“母親の手術代”とか“車で事故をしたから”とか言って、多額のお金を貰っていた。その額やり取りから金額を計算するとその額なんと五千万円以上。

「そんな額、よく黒木は嘘かもしれないって気付きませんでしたね」と不思議そうな山下。

「このやり取りを見ていくと、黒木が“沙智”という人物にどれだけのめり込んでいるかがわかるな。そこを巧みに利用したんだな。一種の結婚詐欺みたいなもんだな」とやり取りのSNSを食い入るように読んでいる田畑。「道野良子、すごいなぁ」と感心している。

道野良子が黒木を騙していたという事実に署内は騒然となる。

“沙智”が道野良子という事を黒木が知ったらどうなるか。黒木に道野良子を殺害する動機がでてくる。道野良子は、黒木が入社してからすぐに同じ会社に入っている。これはわざとなのか、たまたまなのか。

署内がまだざわざわしていたが、「これからもっとすごい映像もお見せします」鑑識の職員が言った。

職員が映像を始めると道野良子宅のリビングと思われるところの映像から始まった。

部屋には、テーブルとイス2脚。そこに道野良子に案内されて入ってきた黒木が映像に入ってくる。日付を見ると、外の防犯カメラで黒木が道野良子の自宅に訪ねてきた日付と同じであった。

不貞腐れた様子で椅子に座る黒木。テーブルをはさんで黒木の目に座る道野良子。

―道野「横領の証拠は揃ってるから、明日西山さんに渡しますから」

―黒木「ふざけんな!。あぁ、金を分けてもらいたいのか?」テーブルを足蹴りする。

―道野「そんなお金ほしくありません。ちゃんと罪を償ってください」

―黒木「罪?。そんなの下人の償う事なんだよ。まぁ、お前が西山に言ったところで、何も変わらないしな。用事ってそれだけか?。重要な秘密をにぎってるっていうから何かと思えば。帰るからな」

―道野「ネットとマスコミに流します。ちゃんと握りつぶされないところから。ネットには、顔写真も載せて。これでどう?」

―黒木「このくそばばぁが。殺してやる」というと立ち上がり、道野良子を椅子から引きずりおろし、床にたたきつけた。そして、道野良子に馬乗りになり道野良子の首に手を掛ける。黒木をジッと見返す道野良子。しばらくすると道野良子の力が抜けた。

犯行の一部始終が映像に残っていた。衝撃の映像に皆、声を出せずにいた。

西山さんというのは、道野良子と黒木の上司だ。

「これは、黒木を呼ばないわけにはいきませんね」山下がボソッと言った。

「今の会話じゃ、黒木は“沙智”が道野良子という事に気付いてないですね。横領がばれて殺したってとこですね」と冷静に映像を見ていた小林が言った。

「署長にこの映像を見てもらう」田畑が内線電話で、署長を呼び出す。しばらくして、機嫌の悪い署長が現れた。

「まだ捜査を続けてたのか。横領も結局は無かったんだろ?。他にしなきゃいけないことも沢山あるんじゃないか?」嫌味をいい、椅子にどかっと腰掛ける。

田畑が鑑識の男性に合図する。

先ほど流れた、道野良子のリビングが映し出され、犯行の様子が流れる。署長の顔色が変わる。

映像を見終えたとこで、皆の視線が署長に注がれる。

「わかった。ただ、私が許可を出してから、黒木の任意同行でも逮捕でもかけてくれ」と言った。「わかりました。でも、もし黒木が逃げたり、死ぬような事があったとしても、立件します」と田畑。

「わかった」と署長。署長は部屋を後にした。

でもなぜこんな映像まで残っているのだろう。捜査が進んでいたが、小林はひとり考えていた。

程なくして、上からゴーサインがおりた。黒木は黒木ではなく、伊藤という苗字に変わっていた。黒木大臣の奥さんのお兄さんの家に養子に出されたようだった。自分の身内という事を少しでもばれないようにするためか。

「息子じゃなくて自分なんだな」とそれを聞いた田畑がつぶやいた。田畑にもまだ高校生だが一人息子がいた。もし、もし息子が犯罪を犯してしまったら…。自分も一緒に罪を償いたいと思うだろう。成人したから、息子は息子というが、やはり、手は離せないと、反抗期でなかなか話をしてくれない息子だが、そう思う。

黒木の父は、息子を切り捨てたのだろうか。自分の地位を失いたくなかったのだろうか。黒木の父にとって黒木は何なんだろう。そう考えると、罪を犯したのかもしれない黒木の事も少し同情してしまう。まぁ、どういう理由があれ、罪は犯してはいけない。若い犯罪者は、成育歴も大事な彼らの犯罪に大きくかかわってきていることも刑事をしてきて感じる。

といって、自分がしっかりとした子育てをしているかといえば、妻に任せっきりの事ばかり。

田畑と山下と小林は黒木を迎えにいく。自宅から出勤するところを狙った。

「伊藤保さんですよね」と小林が微笑みながら言うと、怪訝そうな顔をした。「僕は、黒木ですが、人違いじゃないですかね」と黒木が言った。

「まぁ、どっちでもいい。僕らと一緒にちょっといいですか?」と田畑が言う。

黒木は、養子縁組されて自分の苗字が変わった事さえも教えてもらってなかった。

黒木は、怪訝そうな顔をしながら、パトカーに乗る。その表情は自分が逮捕される理由がわからないといった演技をしている様子でもあったが、目の奥が緊張を放っていた。

署に着き、取り調べ室で話を聞く。

「あなたはどうして警察署に重要参考人として呼ばれたか知ってますか?」と小林が言った。伊藤は、すぐに首を横に振り「全く検討がつきません」と小さな声で言った。横領も親が何とかしてくれたのをしっているのだろう。

椅子に深く腰掛け、足を投げ出し、顔は、怒ってる表情をしていた。まるで、ここに自分が呼ばれるのは、場違いだと訴えているような態度だった。

今回の取り調べには、小林が珍しく立候補した。小林は、顔つきが優しく相手を威嚇しない穏やかな話し方をする。同僚にも敬語だが、容疑者に対しても敬語で。それが、殺人犯でも。そして、恐ろしく冷静。小林の取り調べを見ているとどちらが容疑者か判らなくなることもある。

「道野良子さんって方をご存知ですか?」と小林が聞く。今までダランとしていた身体が、小林のその一言で少し力がはいる。「会社のパートさんです」と伊藤はそれの動揺を隠すようにさらに小さな声でぼそぼそと言った。そして、小林の方を向き、「行方不明になっている事ですか?」と聞いた。「行方不明なんですか?」と小林はなぜかとぼける。

すると、伊藤は瞬きをものすごくし始めた。「会社をずっと休んでいるから、もしかしたらかな?と。」と目を伏せながら小声でぶつぶつとつぶやいた。落ち着かないのか身体にさらに力が入りはじめた。ものすごい緊張しているようだった。「有給休暇とかではなく、行方不明なんですね。へぇー。」と小林がつぶやいた。    

伊藤は、口を真一文字に結んだ。伊藤の表情を言葉にすると“しまった。”だろう。「そうなんですね。」と小林が微笑みながらまた言った。伊藤の顔がこわばる。小林の顔を見れない。

「行方不明なんですね」と小林が今度は自分のノートを見ながら言う。実は、このノート真っ白で何も書いていない。

「今日も、来てなかったみたいなので。それに道野さんパートだから、有給休暇があるのかな?」と蚊の鳴く声で伊藤が言う。「道野良子さん、ご自宅が火事になったんですよ」と小林が言うと、「道野さんは、何かしたんですか?」と伊藤が聞く。動揺しているせいか、墓穴を掘るような事を言ってしまっている。「なぜ、何かしたんだと。」と小林が聞くと「ほら、なんかそんな気がして。」と伊藤。「また、なぜ。」と小林。「何か、会社で怪しかったんですよね。何かはわかんないですけど。」と伊藤。さっきまでとは違い、雄弁になってきた。

「何かって何となくでもわかりますか?何かの参考になればいいと思いますので」と小林が間髪いれずに激しく突っ込むと、伊藤は「いや…。ちょっとわかりません。そういえば、上司がバタバタしていたような。」と言い出し、口をつぐんだ。これ以上、何かしゃべるとボロが出るのがわかったのだろうか。

小林はその様子を見て、「自分の苗字が変わったのご存知でしたか?」と話題を変えた。

伊藤は、ちらっと小林の顔を見たが、すぐに目をそらす。そして首を横に振った。事件と話がずれたので、びっくりした様子だった。。

「伊藤という姓に心当たりがありますか?」と小林がにこやかな表所をしながら聞く。小林が聞くと、また小林の方をちらっとみる。しかし、すぐに目をそらす。首を横にかしげながら、「いや」と一言。

「あなたのお母様の旧姓です」と小林が言うと、また小林の顔を見て、きょとんとした表情をした。その表情を見ながら小林は「あなたは、養子に出されました。お母様のお兄さんの子どもになりました」と淡々微笑みながらと言った。

部屋の隅をじっと見つめ、何か考えている様だった。そして、小林の方を見て「えっ。あのろくでもない野郎の?」と伊藤の口から言葉がこぼれたが、すぐに小林から視線を離した。

眉をよせ、信じられないと言った表情をみせた。「あなたは、黒木保から伊藤保になりました。警察に呼ばれると知ってどなたかが手続きをされたみたいです」と小林がにこやかに続けた。しばらく伊藤はフリーズしたように瞬きもしなかった。

そして、ようやく意味を理解したのであろう。「あいつ、切りやがったな」とボソッと言った。憎悪のをむき出しにした。体中から怒りが出ていた。その怒りを抑えるかのように伊藤は、くちびるを噛みしめ、目をつぶった。そして、深呼吸をひとつ大きくした。身体中の空気を全部出すと、目を開けた。憎悪は消えていた。身体中の怒りも消えていた。

「実はですね。道野良子さんのお宅が防犯カメラをつけていたんですよ」と小林はまた事件の話に戻った。それもサラッとにこやかに話す。事件の話ではないみたいだ。

“防犯カメラ”という単語に伊藤は小林をじろっと見た。しかし、すぐに目線は部屋の壁を一点凝視し始めた。伊藤は、身動きもせずに何の反応も示さなくなった。動かず一点凝視。

「で、ですね。その防犯カメラの映像に、貴方が道野良子さんの家を出入りする様子が映っていたんです」小林が淡々とにこやかに伊藤の反応も気にせずに話を続ける。

「それも、火災が起こるすぐ前ですね。あっあと、防犯カメラに道野良子さんがあなたを家に招き入れる様子もうつってました」と小林がにこやかに言うも何の反応もない。

突然、小林はここで話をやめた。しばらく。取調室に静けさがおとずれた。取調室にいる者の心臓の鼓動や呼吸をする音、瞬きの音さえも聞こえてきそうな時間がすぎる。

どのくらいたっただろう。沈黙を破ったのは、伊藤だった。一点凝視していた視線を小林に向ける。そして「道野さんが逃げる手伝いをしました」と伊藤。小林はその回答に伊藤をじっと見る。「道野さんが、会社のお金を使い込んでしまったから、逃げたいから手伝ってほしいって言われて、道野さんを逃がした後、道野さんに頼まれて道野さんの家に火をつけました」と伊藤。

何か吹っ切った表情だった。

「じゃぁ、道野さんはどちらに行かれたかご存知ですか?」と小林が聞くと「そこまではちょっと…。聞かなかったです」と伊藤。堂々としている。

「では、なぜ横領をした人を手伝おうと思ったのですか?」と小林が聞く。「道野さん、なんか騙されたかなんかで困っていたのを知っていたからです。」と淡々と話す伊藤。

「そうなんですか。」と小林が言う。その言葉に小林が納得してくれたんだと思ったらしく、伊藤の目に笑いがはいる。

小林がここで「道野さん、遺体で見つかったんですよ」と伊藤をじっと見ながら言った。伊藤の目が急にキョロキョロしはじめる。それは、予想外の言葉だったらしく物凄く驚いたようだった。

そして、「えっ?自殺しちゃったの?」と裏返った声で伊藤が言う。

「いえ、殺害されてました。首を絞められた後に遺棄されたようで、首に誰かの指紋がしっかりとついてましたよ。」と小林が真面目な顔になり、伊藤をじっとみる。。「いや、手はかけてないし」伊藤が言う。確かに伊藤の言う通り、道野良子の首に付いていた後は、ひもの痕跡だった。

『よく、ご存じで。確かにその通りです』と小林が満面の笑みを返す。

隣の部屋から見ていた田畑が「あいつ、絶対サイコパスだな」と言った。伊藤が首を小刻みに振り続ける。「いや、有り得ない。いや、絶対に」とぶつぶつ言い始めた。「なんでありえないんですかね」と小林が微笑みながら聞くと「いや。いゃ。有り得ないから」とブツブツ繰り返すだけだった。

隣の部屋から見ていた山下が「絶対に見つからないって思ってたんですかね」と言った。

田畑が「確かに。あの場所は、普段、人の出入りの無い所だから遺体があるって思わないと捜索しないよな」とうなづく。

「見つかってよかったです。防犯カメラといい、GPSといい、マイクロチップといい」と山下が言う。

「道野良子の横領の贖罪で片付けられる話だったのにな。なぜかとんとん拍子に証拠が見つかり…。途中、邪魔が入るもその邪魔をものともしない証拠が淡々とでてきて」と田畑も山下の話にのる。

「そうですよね。怖くないですか?捜査しながら、見えない何かに誘導されている気分でしたもん」と山下が言った。

「まぁ、確かに初めの現場の様子からすると信じられないわな」と田畑。

そして、課長が「なぁ、田畑。防犯カメラって見つけたの偶然か?」と聞いた。「そうですね。でも、早いか遅いにしろ、誰かが気付いていたのかもしれないと思います」と田畑は言った。

「そっか」と課長は言った。

「弁護士を呼んでください」と伊藤がボソッと言い出した。「どなたかに頼みます?」と小林が聞くと、「うちの弁護士は……」と言い始める伊藤。だがすぐに言葉が止まる。

「くそっ」と伊藤は表情を歪ませながら言い、「何で俺だけこんな目に合うんだよ」と言いながら、頭を抱えながら奇声を発しはじめた。

「しばらく、一人で考えます?」とその様子にも動じることなく冷静に小林が聞くと、小林ににらみをきかす伊藤。

小林は一枚の紙を伊藤の前に出し「逮捕状ですね。道野良子さんの殺人容疑と死体遺棄容疑、後は道野良子さんの家に放火した疑いですね」とにこやかに伊藤の心情などお構いなしに伊藤に見せた。

「くそっ」と伊藤がつぶやき、また奇声を発し始めた。

小林は伊藤を立ち上がらせ、手錠をかけようとしたが、伊藤は抵抗する。小林を殴ろうとした。慌てて安川が中に入り、小林を拘束する。そして、手錠をかけ、部屋を出て、留置場にむかった。終始、奇声を発し、暴れる伊藤。田畑は何人かの刑事で押さえつけながら、留置所に向かう。

留置場に着くと「落ち着いてから、また取り調べしますね」と小林。

何事も無かったかの様に小林はニコッと満面の笑みを黒木にみせる。

証拠は、揃っている。自供は、抜けの無いように丁寧にやりたい。手を離したとはいえ、黒木大臣の息子。どんな相手を連れ立ってくるかもわからない。

留置場内では、伊藤がブツブツと床をたたいたり壁を叩いたりと行き場のない怒りを発散していた。

「なんだよ。何で、防犯カメラって。あんなクソ汚い家に付いてるか普通。それに何で死体がすぐに見つかるんだよ。崖のしただぞ。あんなとこ、歩いてる奴も行くやつも見た事ないぞ。なんなんだよ。あの女。親父も親父だし。自分の名前に傷がつくと思いやがって。何なんだよ。本当に。何で俺だけ……」等々、ブツブツブツブツ繰り返していた。

しばらくすると、観念したのかおとなしくなった。力の抜けた姿でボーっと何かを見ているのか見ていないのか分からない焦点の定まらない精気の抜けた様子になった。

小林は、小林で楽しんでいた。証拠は揃っているが、どうせなら伊藤の口からも犯行の様子を聞きたい。どこから切り込めばいいのだろう。先ほど、遺体について切り込んでみたが、動揺しただけで、何の話も聞けなかった。動揺するという事は、何か関わっているという事だから、身体表現としてはいいのだが。不謹慎ながら小林は、ワクワクが止まらなかった。

伊藤のSNSを調べていた同僚から報告がはいる。

伊藤のSNSからも道野良子とのやり取りが確認された。それも、相当はまっていたのだろう、違うファイルにコピーしてあり、間違って消さないようになのか保護までしていた。

道野良子のSNSと違った点は、逮捕されるまでSNSを書き込んでいた。ただ、やり取りは道野良子が伊藤と接触するまでだったが、その後も伊藤が一方的に書き込んでいた。

道野良子のSNSと違った内容としては、会社の同僚に横領がばれたから、どうすればいいかとの相談をしていた。

道野良子は、それに対して“殺してしまえばいい。”と返答していた。そして、犯行の手順までアドバイスしていた。“これだと、完全犯罪になるから大丈夫だと。”

それは、伊藤が実際に道野良子に行ったことだった。道野良子は、自分が殺される相談を自分にされていたことになる。

では、なぜ逃げなかったのか。伊藤が犯人だとわかっているのに、殺した方がいいなんてアドバイスはしないだろう。

「道野良子は、伊藤のターゲットが自分だとは思わなかったんですかね」と山下が言う。

「いや、分かってたと思いますよ」と小林は断言した。

「じゃあ、襲ってきたところを返り討ちにするつもりだったとか。」と山下。

小林が、首をかしげながら「絞殺していた時の映像がありましたよね。あの映像を見る限り、道野良子は、首を絞められていても抵抗していなかったんですよ」という。

「その映像、今、見れるかな?」と田畑。

映像をもう一度見る。

「あっ、抵抗してないな」と田畑。

 そこにいたほとんどの人たちがうなづく。むしろ、微笑んでいるかのような表情をしていた。

「これって、もしかして…、道野良子が息子を自殺に追い込んだ伊藤を陥れた?」と山下。そして「でも、なんで自分が死ぬ必要があったんだろう」と続けた。

伊藤が落ち着いてきたのか放心状態になっているのか分からないが、大人しくなったので、事情聴取を始めることにした。

伊藤がどこまで分かっていて、事件をおこしたのだろうか。

「道野良子さんは、会社だけの知り合いですか?」と小林が聞く。

伊藤は、怪訝そうな顔をして「会社の同僚というだけです」ときっぱりと言った。

「知り合ったのはいつですか?」と小林が聞くと「自分が入社してから、しばらくしてからパートで入社してきました」と不貞腐れた態度で言った。

「では、なぜ道野さんの自宅を訪れたんですか?」と小林が聞くと「あの人が、家に来いっていうから」と伊藤。

「なぜ、家に呼ばれたんですか?」と小林。「お金が欲しかったんじゃないですか」と吐き捨てるように答える伊藤。

「なぜ、道野さんは貴方からお金をもらおうとしてたんですかね」と伊藤をのぞき込むように聞く町田。「僕が正社員だからじゃないですか?」と伊藤が吐き捨てるように言う。そして、「俺は、はめられただけなんだ。あいつのせいで、俺の人生がめちゃくちゃじゃないか」と吐き捨てるように言った。

「でも、会社のお金を横領してたのは、事実ですよね」と小林が微笑みながら言う。

「していません。横領って何ですか?会社から被害届が出てるんですか?」と強気の伊藤。会社が横領を無かったことにしている事を知っている口ぶりだ。

「あなたが横領していたという証拠を我々は持っています」と伊藤に笑いかける小林。四十歳過ぎのおじさんが、笑いかけると普通でも怖い。

怪訝そうな表情をする伊藤。「あのおばさんか。」と言い、「あんな、ずさんな管理をしている会社が悪いんだよ。お金、盗んでもいいですよ。っていってるもんじゃないか。あんただって、目の前にお金が落ちてたら拾うだろう?」と伊藤。

開き直っているようにも見える。だが、小林に乗せられて横領をしていたことを認めた事になる。「いいえ、ちゃんと警察に届けます」と小林。「それは、建前だろ?」と伊藤。

そして「親父も親父だよな。ちゃんと、自分の子どもの面倒を見ろって話だよ。あいつも巻き添えにしてやる。俺を切ったことを後悔させてやる」と伊藤。

「成人しているのに何言ってんだ」隣の部屋で見ていた田畑が吐き捨てる。

「全く、反省もしてませんね」と今度は山下が言う。

「親が今まで、悪いことをしてきた時にちゃんと反省させなかったからじゃないか」と田畑が言う。「それにしても小林さん、冷静ですね」と小林の取り調べに恐怖を感じている山下。

小林は、ニコニコしながら取り調べをしていたが、目が全然笑ってなかった。冷めた目で見ていた。

「確かにな。ほら、彼、サイコパスだから、楽しんでるんじゃない?」と笑いながら田畑。

小林は取り調べを楽しんでいた。追い詰めていく感じがたまらなく楽しい。

「横領のお金って何に使ったんですか?」と小林。

伊藤の表情が一瞬“ギョッ”となる。そして「自分のものを買いました」と少し動揺をしながら、だが、小林に悟られるまいと真顔で返した。

「定期的にある人物に送金してますよね」とニコッとする小林。そして、じっと伊藤をみる。

その視線に伊藤がたじろぐ。

「あぁ、昔の知り合いに借金もしていたからその返済です」とたどたどしい返事をする伊藤。

「収入以上ですよね」と小林。

「ほかにも収入があったから」と伊藤。

「警察の捜査、なめてます?」とにこやかに話す小林。

伊藤は小林の視線を交わすように下を向き黙る。

「そのお金が“沙智”と言う人に流れてたんじゃないですか?そうなってくると、“沙智”さんにも話を聞かないといけなくなってきますね」と小林。相手をイラっとさせるような口調になってきた。

「彼女には関係が無い。横領していたのは、僕が使いました。彼女には僕の給料から借金を返してただけです」と大声で否定する伊藤。

 その伊藤の態度に手元の資料を見ながら、ニンマリする小林。そして、表情を元に戻し、「沙智さんとは知り合いですか?」と小林。

「知り合いです」とさっきとは打って変わって冷静に答える伊藤。

「その知り合いは横領のお金という事は知ってるんですか?」と小林。

「だから、横領のお金は自分のものを買いました」と強い口調の伊藤。

「あなたの家を家宅捜索しましたけど、そんな物はどこにもなかったですよ」と小林が真顔になる。

「だから、横領の金は自分で使いましたって言ってますよね」と伊藤の口調が強くなる。

「だから、買って人にあげたんです」と伊藤。言ってる事に一貫性がない。「では、裏付けしたいので、貴方が物をあげた人を教えてもらえますか?」と小林が少し厳しい口調になる。

「そこらへんのホームレスにあげたから、誰にあげたか覚えてません」とぼそぼそと話す伊藤。

「それを私たちに信じろと」と小林。「真実だからです」と伊藤。

小林は大きくため息をひとつついた。「あなたが言われていることも真実かもしれない。でも、裏付けがとれないとこちらでは、真実としては認識はできません。これ、わかりますよね」と小林が少しきつめの口調で伊藤を見ながら話す。

その小林の態度にビックリしたのか、伊藤は聞き取れるか聞き取れないかの小さな声で「はい」と答えた。

「月に相当な額を“沙智”さんに送金されてますよね。では、何の借金なんですか?」と小林。

「その人から、洋服とかの代金を立て替えてもらってたから」と伊藤。

横領した金でも物を買い、“沙智”にも物を買ってもらってたという伊藤。

「立て替えてもらったお金で買ったものも、ホームレスにあげたわけですか?」と今度はため息交じりの小林。

目が泳ぎ出す伊藤。

しばらくして、伊藤が「刑事さんは、“沙智”さんに多額のお金が流れているから、横領したお金はそっちに流れていたんだろうと言われたんですが、それは違います。僕の給料を全部、彼女に送っていたんです。だから、生活費が足りなくて横領したんです。彼女に渡したお金は、僕が稼いだり借りたりしたお金です。横領したお金は、僕の生活に使ったんです」と話し出した。

どうしても“沙智”を悪者にしたくないらしい。小林がじーっと何も語らず伊藤を見る。伊藤も視線を感じ、小林を見るが、視線が嫌なのかすぐに目をそらす。小林は、伊藤の事をお構いなしに伊藤をジッと見ている。

「彼女も罪に問われるんでしょうか?」と伊藤が口を開く。

「事情は聞かれると思います。関係はないとはいえないので。今回の事件も横領がなければ発生しなかった事件ですよね」と冷静に語る小林。

「でも、彼女にお金を渡したのは自分の意志です。彼女は、僕にお金を貸してくれと一言もいってません」と伊藤。

「では、なぜ彼女にお金を渡すようになったんですか?」と小林。

伊藤の話は、二転三転している。

“沙智”にお金を借りてたから返した話が、彼女にお金を貸した話になっている。

小林は、その点については何も伊藤に聞かない。

聞いても無駄なことを小林はわかっているのだろう。

伊藤はしばらく考え、黙っていたがポツポツと話出す。「最初の頃は、自分の収入でやり繰りしていたので、お金が足りずお金を渡せない時がありました。そしたら、彼女と連絡が取りにくくなったんです。返事が一向に返って来なくなったというか…。彼女に聞いたら、親が病気でお金がいるから、バイトを増やしているんだと言われたんです」と伊藤。「彼女が忙しくなると、僕とのつながりが消えてしまうと思ったんです」と続ける伊藤。「僕がお金を貸すと言ったら、嫌がったんです。僕との付き合いがおかしくなると嫌だと言って。でも、僕が無理やり渡したんです。だから、彼女は関係ない」と伊藤。“沙智”をかばいたい伊藤の必死さが伝わってくる。

あと、伊藤の寂しさも。

これが本当の話だろう。

田畑は隣の部屋から聴取を聞いてて思う。もし、“沙智”が道野良子だと伊藤が知ったらどうなるのだろう。この様子では、知らない事は絶対だ。それも、道野良子は伊藤から搾取した金額を全額貯金していた。お金が必要ではなかったのだ。

「おい。小林の右手、見てみろ」隣の部屋の田畑が隣にいた山下に言う。

笑いを堪えきれない様子で、自分の太ももにペンを立ててる。

「小林さん、楽しんでますね」とビックリする山下。

伊藤が必死に“沙智”をかばっている時に小林は笑いを堪えていたのだ。

「“沙智”さんに会われた事はありますか?」と今度は、手元の資料を見ながら投げやりな感じで

聞く小林。「いいえ。」と小声の伊藤。“沙知”の話はしたくない様子だ。

「“沙智”さんの本名をご存知ですか?」とまた手元の資料を見ながら、伊藤の方を振り向かない小林。「知りません。」と小声の伊藤。このごに及んでも“沙智”さんの事をかばいたいのであろうか。伊藤とのSNSの中で道野良子は、“佐藤沙智”と語っていた。

伊藤が逮捕されてからすぐにある地元の雑誌に今回の事件の概要が事細かに掲載されていた。田畑達さえ知らない情報が載っていた。

警察から洩れた情報では無い事はすぐにわかった。

雑誌社を訪ねると道野良子が殺される前に会っていた男性がそこにはいた。

「この事件は、彼女の復讐です。息子さんを自殺に追いやった者をちゃんと警察に処罰してもらおうと。何十年にもわたって緻密に計画していたみたいです。話を聞いた時に、止めたんですけどね。彼女の決意は固かったです。自分が殺される事さえも」と男性が言った。

道野良子がこの男性に話したのには訳があった。もし、中学の時の様に伊藤の父親に妨害されることがあったら、伊藤の逮捕より先に雑誌に掲載してほしいと。この男性は、道野良子の息子の自殺をその当時勤めていた雑誌に載せようとして左遷されてしまった男性だった。男性は、左遷され、自分で雑誌社を立ち上げていた。彼女は、その当時の事をとても感謝していて、スクープとして今回の自分の計画を打ち明けたのだという。

雑誌に載った事で、世間に知られることになったため、マスコミが、黙っていなかった。連日のようにテレビでの取材合戦がはじまった。伊藤の旧姓が黒木だという事。事件で逮捕されるのが決まったとかに養子縁組させられ、名字が変わった事、父親が大臣をしている事がすぐにばれてしまっていた。

黒木大臣は、初めはお決まりの体調不良の入院をしていたが、事件が事件だけにそれも十数年前にも子どものいじめを隠蔽し、それによって二人の自殺者を出している事が大々的に報じられ、大臣を解任され、議員も辞職に追い込まれた。

伊藤も、道野良子に誘導されたように事件をおこしたが、それに対して擁護するものはおらず、中学の時に起こしたいじめの方がクローズアップされ、むしろ印象は悪くなる一方であった。

伊藤本人も“沙智”という人物に好意を抱き、信用までしていたのだろう。小林は、“沙智”が道野良子という事を伊藤の事件の調書が完成した時点でポロっと伊藤にこぼした。

「知ってました?沙智さんって道野良子さんって事」小林は、調書の最後のサインを書きながらそれを伊藤に伝えたのだ。そして、小林は伝えた後に満面の笑みで伊藤に微笑んだ。

その時の伊藤の表情を田畑は忘れない。目が見開き、信じられない、信じたくないというものを伊藤の全身に感じた。しばらく、伊藤は目が見開いたままだった。

そして、伊藤は壊れた。

伊藤が家に引きこもり状態になった中学時代から心の支えだったものが実は“嘘”でそれも自分を騙すために仕組まれたと知ったのである。親も何もかも信じられない中、彼は“沙智”に幻想を抱き、唯一の心の支えであったのであろう。“沙智”が道野良子であり、道野良子が自分が自殺に追い込んだ同級生の母親だと知った時、彼は、机に頭を打ち付け大声で奇声を上げ始めた。すぐに拘束され、眠らされた。目が覚めてからも、食事を一切取らなくなり、寝たまま起き上がる事もせず、天井の一点をじーっと一日中見ているだけになった。

二十年前に息子を殺されて誰からも罰してもらえなかった彼らに彼女は一人で戦った。彼女の身を捧げなければ、勝利は無かったのかもしれない。今のこの状態を彼女は遠い空の上で何を思うのだろう。冬の空気で澄みきっている晴天の空は、彼女が笑っているようにもみえた。

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